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2021年 春季大祭 大教会長神殿講話

 本日は、寒さ厳しい中にも穏やかなお日柄を頂いて、皆さんそれぞれご多用の中を、また、コロナウイルスによる影響の中をも、春の大祭にご参拝を頂きまして、誠に有難うございました。また、日々はお道の御用の上にご丹精を賜り、誠に有難うございます。城山につながる皆さんには、昨年の一年間、大教会の上には大変お世話になりました。今年もどうぞよろしくお願い致します。

 早いもので、今年一年がスタートをして三週間が経ちました。年が明けて元旦には、皆さん心定めを神様にお誓いをして、心新たに今年一年が始まったことと思います。そして、昨年の一年間はコロナの影響から、親神様の思召しはなんだろうと、思案を重ねて通らせて頂いた一年であったと思います。

 さて、今年は立教百八十四年・令和三年となります。そして、干支は丑年であります。丑年は、先を急がず一歩一歩着実に、物事を進めることが大切な年と言われています。また、牛は大変な農作業をしっかり手伝ってくれる働きぶりから、丑年は「耐える」、「これから発展する前触れ・芽が出る」というような年になると言われているそうです。

昨年の一年はコロナの影響から、コロナに「耐える」一年であったと思います。しかし、現在もまだコロナの影響が続いておりますので、その中を今年も丑年にまつわる「耐える」、「これから発展する前触れ」に期待をして、「芽が出る」ような一年にさせて頂きたいと思います。

 本日は神殿講話でありますので、しばらくの間、お時間お付き合い下さいますようお願い致します。只今は春の大祭を結構につとめさせて頂きました。春の大祭は、教祖が子供可愛いとの親心から、定命を二十五年お縮めになり、現身をお隠しになった、明治二十年陰暦正月二十六日の大きな節を、元一日としてつとめる大祭であります。

 教祖は、月日のやしろとしてお定まり下されてから現身をお隠しになられるまで、口や筆に身をもって五十年にわたり、陽気ぐらしへと向かうたすけ一条のひながたを、私達人間にお示し下さいました。教祖が貧に落ち切られたのも、長い間ご苦労を下されたのも、その目的というのは、あくまでも「たすけ」というこの一点にあったと思います。ひながたとは、人をたすけるためのひながた、人がたすかるためのひながたであると言うことができます。そして、その具体的な道としてお教え下さったのが、よろづたすけの道であるおつとめです。ひながたとは、別の言い方をすれば、おつとめの完成の道であるとも言えると思います。そして、教祖は現身をお隠しになられた後も、ご存命のお働きをもって、いついつまでも私達子供の成人の上に、暖かい親心をお掛け下されるのであります。

 教祖は、子供可愛い親心から成人してもらいたいと、ひながたの道をお残し下さいました。それでは、ひながたを通るとは、具体的にどうすればいいのか?その事について、真柱様は、「私達がひながたの道を通るとは、その形をそっくりまねることではなく、常に教祖のたすけ一条のひながたを念頭に、今このような状況で、教祖ならばどのように思召しになるだろうか、教祖ならどのように行動されただろうかと、ひながたに照らして思案し、それに少しでも近づけるよう行動することだと思うのであります。その積み重ねが、親の思いに近づく成人の歩みとして身に付き、おのずと道の信仰者らしいにをいを、醸しだすことになると思うのであります。」とこのように仰せ下さいました。

 私達は教祖の道具衆でありますので、教祖のひながたを心の拠り所にして、信仰の指針として日々を通らせて頂きたいものですが、しかし、そのことを頭ではわかっていながらも、なかなか実行できないのが私達お互いではないでしょうか?私も教会長としてようぼくとして、教祖のひながたを頭ではわかっていても、心にしっかりと治まっていないために、ひながたをたどるどころか形や体裁を気にして、自分の都合のいいように信仰してしまっています。そして、毎日をくらす中で、一日二十四時間、神様をどれだけ心の拠り所にしているかと言えば、おつとめをつとめる時や、誰かにおさづけを取り次がさせて頂く時が主になっていて、神様への思いが足りな過ぎると感じています。

 しかし、このようなことでも教祖の御教えを聞かせて頂いているお蔭で、失敗と反省の繰り返しばかりですが、少しずつ成人の道へとお育てを頂いているんだと思います。成人とは親の心に近づく努力をすることだと聞かせて頂きます。教祖の五十年のひながたを、苦労を乗り越えるための道と受け取るのか、その先にある喜びを楽しむひながたと思案するのかは、私達の心ひとつであります。私達お互いは、今日の春の大祭の吉日に、教祖のひながたを頼りにして、少しでも成人した姿を神様にお見せできるように努力することを、皆さんとお誓い申し上げたいと思います。

 さて、昨年十二月の月次祭で、大教会創立百三十周年記念祭を、真柱様・奥様のご臨席を頂いて、立教百八十六年・令和五年十一月二十日に、つとめさせて頂くことが決まりましたことを、お伝えさせて頂きました。ここで、大教会として記念祭に向かっての、方針や思い等をお話させて頂きたいと思います。

 城山大教会は、明治二十六年九月九日に、城山支教会としてお許しを頂きました。その後明治四十二年三月一日に城山分教会に改称をし、昭和三十六年十一月二十六日に、城山大教会に陞級をしました。そして、教会設立のお許しを頂いてから、立教百八十六年・令和五年九月には、百三十年が経つ訳であります。そこで、昨年の始め頃から役員会で相談を重ねて、この大きな節目に、創立百三十周年記念祭を真柱様・奥様のご臨席を頂いて、つとめさせて頂くことに決めさせて頂きました。そして、この度記念祭をつとめることにさせて頂いた思いというのは、教会創立百三十年という大きな節目に、私達が信仰するお道の芯である真柱様・奥様をお呼びして記念祭を執り行い、その中で一手一つに勇んだおつとめをご覧頂きたいという思いと、そして、もう一つには記念祭に向かう三年千日の旬に、城山につながるそれぞれの教会が、抱えている身上や事情をご守護頂き、少しでも成人させて頂きたいとの思いからであります。

 次に、記念祭に向けての方針の話をさせて頂きます。現在掲げている大教会の活動方針は、引き続いて記念祭までの活動方針とさせて頂きます。先日記念祭のポスターと、お供え袋を作らせて頂きましたので、今月の末に直轄教会へ配布をさせて頂きます。ポスターには、「過去・現在・未来にありがとう」という言葉と、「ありがとうの循環を」という言葉を、入れさせて頂きました。そして、お供え袋のことですが、以前の記念祭までは、表書きの中心に「お供え袋」と表記していましたが、今回の記念祭は、お供えとは神様へつなぐことでありますので、「おつなぎ」と表記をし、「おつなぎ」袋とさせて頂きました。そして、「おつなぎ」の文字の下の面には、・今日までお連れ通りを頂いたことに感謝。・今、生きていることに感謝。・明日へ歩むことができる感謝。と、感謝の三項目を書かせて頂き、その横には、「その感謝の喜びを、神様へつなぎ、まわりの人へ伝えましょう。」と、入れさせて頂きました。

 ここで、今お話しさせて頂いた、ポスターと「おつなぎ」袋の言葉の意味することを、お話させて頂きたいと思います。ポスターと「おつなぎ」袋の言葉の共通に意味することは、感謝をさせて頂こうということでつながっています。感謝をするということは、私達が信仰させて頂く上で、とても大切なことであります。それも現在今のことに感謝をするだけではなく、過去・現在・未来と、感謝の気持ちを持ちたいものであります。

 それでは、過去・現在・未来への感謝とはどういうことか言えば、過去に感謝とは、百三十年という長い年月、城山の道は今日まで途切れることなく続いてきました。それというのは、私達の先人の先生方が教祖のひながたを慕い、たすけ一条の道をお通り下さり、先を楽しみにして、信仰をつないで下さったお蔭でありますので、今日までお連れ通り頂いたことに、感謝をしなくてはなりません。これが過去への感謝であります。

 次に、現在(今)に感謝とは、今、私達は先人の先生方がおつくり下された、その道を通らせて頂く中に、銘々に身体をお借りし、更には親神様のお働きを頂いて、結構に生かされているお互いでありますので、この尊いご恩に感謝をしなくてはなりません。これが、現在(今)への感謝であります。

 最後の未来に感謝とは、過去・現在にもありました、親神様のお働きのご恩や、先人の先生方の思いにお応えさせて頂くには、私達お互いが、これから喜びの心を持って、将来の楽しみを描きながら前に進むことであります。そして、私達はこの思いを持って、当たり前のように明日へ未来へと歩むことが出来ますので、そのことに感謝をしなくてはなりません。これが未来への感謝であります。

 私達は、陽気ぐらしを目指すお互いでありますが、以前、ある先生から陽気ぐらしをするのには、感謝をすることから始まると、このように聞かせて貰ったことがあります。感謝の意味を調べて見ましたら、感謝とは幸せを感じるのと、同じことだとあります。そして、幸せな人は、何か幸せなことがあったから幸せなのではなく、普段のくらしの中に、ほんのささいな幸せなことを見つけて幸せになれる。あれがないから幸せになれないとか、これがないから不幸だと言っている人は、いつまでたっても幸せにはなれない。不平不満に目がいくのか、感謝や幸せに目がいくのか。事実は一つでも、感じ方見方によって、人生はまったく変わってくる。感謝の本当の意味は、すでに頂いている幸せに気づくことと、このようにありました。

 それでは、私達は毎日のくらしの中で、どれだけ感謝をしているでしょうか?私達は日々何事もなく一日が終わると、そのことを当たり前のように感じてしまい、そして、何か平凡で物足りないと欲が出てしまうものであります。しかし、反対に何か身上や事情をお見せ頂いた時に、何事もない平凡な毎日が、当たり前ではなくどれだけ有難いことなのか、もっと感謝しなければと改めて気付くのが、私達の心の常ではないでしょうか。私自身も、今こうして会長という立場を頂いておりますが、毎日のくらしの中では、正直に言えば感謝することよりも、不足、愚痴、不平不満が先にたってしまっています。

 私が最近感じることなんですが、人と挨拶や話をする時に、その中でお蔭様という言葉が、少しずつ使われなくなってきたように思います。感謝の気持ちが無ければ、お蔭様の言葉は出ません。ですから、今の時代感謝の気持ちというものが、段々と失われつつあると思います。感謝の反対は当たり前です。当たり前と思えば感謝が無くなり、欲が出てしまうものです。

 みかぐらうたに、

 よくにきりないどろみづや

 こゝろすみきれごくらくや

と聞かせて頂きますが、私達人間の欲にはきりがありません。今与えられた姿を心の底から感謝できることが、私達人間の本当の幸せではないでしょうか。私達一人ひとりが、毎日のくらしの中で周りの人達に感謝をし、感謝の言葉を掛け合って行けば、自然に明るい家庭や明るい教会へと、段々となっていくものだと思います。

 皆さんもご承知の通り今月の十一日に、全国大学ラグビー選手権の決勝が行われて、天理大学が昨年の王者早稲田大学を破り、大学ラグビー選手権の初優勝を遂げました。本当に有難く、皆さんも大変喜ばれたことと思います。しかし、昨年の八月に部員の三分の一がコロナの集団感染をされて、一ヶ月間活動中止となりました。そして、その後活動が再開されますが、モチベーションの低下とあせる気持ちから連係がなかなかうまく取れず、チームがまとまらなかったそうです。そこで、キャプテンの松岡君がチームのみんなを集めて「こうして練習を再開できたのは、自分達の力だけじゃない。このような素晴らしい環境で、ラグビーができることに深く感謝をしなければいけない。そして、その感謝を日本一という恩返しにさせて頂きたい。」と話されて、その後チームが一つにまとまって、優勝につながったとのことでした。

 このように、感謝をすることがいかに大切なことかわかると思います。先程の過去・現在・未来への感謝の話に戻りますが、感謝の言葉と言えば「ありがとう」でありますので、過去にありがとう・現在にありがとう・未来にありがとうの心を神様におつなぎをしながら、私ができるありがとうを、形にさせて頂きたいと思います。そして、このことを記念祭に向かう、教会家族を始め教会につながる一人ひとりの目標にして、活動方針とさせて頂きます。先程、記念祭のポスターとおつなぎ袋を、月末に直轄教会に配布をさせて頂くと話しましたが、一人ひとりの目標を書けるように、別紙をポスターとおつなぎ袋と併せて配布を致しますので、別紙に目標を記入をした上で、ポスターと一緒に教会やご家庭に掲げて頂きたいと思います。

 そして、この記念祭の目標ですが、昨年表統領先生の「これからの道の歩みについて」のお話を受けて、大教会として部内それぞれの教会が、教会家族としておたすけにつながる目標を定め、教祖百四十年祭三年千日の活動が始まるまで、つとめると話しましたが、この目標とつなげ合わせることにしました。そして、このものと合わせて、私ができるありがとうの形として定め頂きたいと思います。

 次に、おつなぎ袋についてお話させて頂きます。私達は教会を通して、神様に金銭のお供えをさせて頂きますが、金銭のお供えをすることを、おつくし、理立て、おつなぎなどの呼び方があります。それでは、なぜ金銭をお供えするのか?「金銭は二のきり」とお教え頂きまして、金銭は命の次に大切なものとされることから、お供えするのであります。そして、おつなぎというのは、日々に、月々に、身上かりもののご恩をはじめ、親神様のご恩に感謝をして、お礼の心をつないでゆくことであり、そのことを金銭つなぎの道とお聞かせを頂きます。このように、おつなぎさせて頂くことの大切さがわかります。

 この度おつなぎ袋をつくらせて頂きましたが、この旬に記念事業として、まだ何をさせて頂くかは決まっておりませんが、大教会と詰所の老朽化している所を、修理や補修などの工事をさせて頂きたいと思っております。そして、記念祭当日には、おぢばへ城山として、精一杯のお供えのご恩報じをさせて頂きたいので、城山につながる皆さんには、日々に、月々に真実のお供えをして頂き、大変な中だとは思いますが、ご理解とお力添えを頂きますことを、くれぐれもお願いさせて頂きます。

 最後に、この度の記念祭については、皆さんには色々な考えや思いがあると思います。しかし、神様のお言葉の中に、「受ける心で理が決まり、定めたら治まるのが天の理」とお聞かせ頂きます。この記念祭をどのように受けて、どのように定めるかは、私達の胸次第、心次第であります。心定めとは、目標に向けた決意と努力で、神様と約束することであり、親神様の思いに添う心でなくてはいけません。そして、その心を定めて通る中に、自分の力だけでは成しえない、不思議なご守護を頂けるものだと思います。ですから、記念祭に向かう心を、しっかりと定めさせて頂きたいと思います。そして、これから記念祭に向かう中で、現在もコロナは終息しておりませんので、大変な道中もあるかもしれません。しかし、大変とは大きく変わると書きますので、その大変な中で私達が大きく変われるよう、記念祭に向かって、一手一つに勇んでつとめさせて頂きたいと思います。ご静聴有難うございました。